あなたが他人から誤解されたら、相手との平和と調和を願いつつ想像上の会話を試みなさい。やがて誤解は解かれるはずです。
by J・マーフィー
政治と住民を身近にしたい、というのは私のスローガンでもあり、私の志が集約された目標でもあります。政治家という存在がとことん嫌いで政治に対して無関心な方もいれば、今の状態に危機感を感じて行動される住民もいます。また、一念発起し政治の道を志す者も、私のような議員も当然のようにいますし、「政治」というジャンルに只管文句を放ちたいプロ市民のような人もいれば、窓口の職員に罵声を浴びせる輩もいます。
私たちが意識しない(若しくは、できない)ところで、汗まみれ泥まみれになって、意識できない我々に何らかの利益を齎してくれている人たちがいます。そして、たまにですが、そういった人たちに無知故の対応をしてしまうことがあります。
私も深夜疲れているときに高速の料金所でお金を支払った後に、少し無愛想だったかなぁ、と省みることがあります。
おそらく、こういった相手の気持ちを100%察してあげて、四六時中誠意のある応対をすることは無理なのかもしれません。
しかし、認識しようとすることは大切です。それを諦めてしまうと社会という人間同士で構成されているコミュニティーが無理を来たしてしまうと強く思うのです。
私が夜に安らかに寝れることも、その時間帯に必死に働いてくれている人がいるからです。
私が美味しいご飯や魚を食べれるのも、農家や漁師の人たちの労苦によるものです。
私が素晴らしい映画や音楽に出会えるのも、人生を捧げてきた人たちの結晶によるものです。
たとえ私が迷惑だと考えることも、「善の行為」と思ってのことなのでしょう。それを考えることが、おそらく「相手の立場になって考える」ことなのでしょう。
先日まで高石の秋祭りでした。私も及ばずながらお手伝いをさせていただきました。だんじり祭りというのは言うまでもなく、好きな者と嫌いな者に大別されている傾向にあります。
祭りというものは、津々浦々、そういった特性があるのかも知れませんが、好きな者もそうでない者も、自分とは違う立場のことをもっと考えれば、ステキなイベントになるのになぁ、と常々考えています。好きな人は嫌いな人が何故嫌がる傾向にあるのか、嫌いな人は・・・・・など。
ここ何年か見ていると、かなり顕著に変わってきていると思います。参加者は「偉そう」と云われてきましたが、丁寧な対応をするようになってきましたし、不参加の者は車を停められても怒鳴りつけることは少なくなってきているように、むしろ笑顔で対応してくれる方が多かったと感じました。
そんなことを思っていると、政治とだんじりって共通点があると思いました。要は距離感を縮めて身近な存在にしていかなければ、不必要な悪循環が生まれます。
まだまだ、スローガン達成には途上段階ですが、いたずらに達観せずに、いたずらにリアリストを気取らずに、訴えてまいりたいと思います。