googleがgoogleではなくなってきている。
たまにGoogleのロゴが変わります。
その日の由来に起因してるみたいです。最近は、海の日だったり、アルゼンチン独立記念日だったり、それにちなんで、ロゴも変わるそうです。
例えば昔ので・・・
一瞬、ベヘリット?と思いましたが、どうやら違うよう。
コンスタンチンブランクーシとかいう人の生誕だったそうです。
Googleのアクセス数がfacebookに抜かれたことなどで、巻き返しを図るために頑張っているんかなぁ、とか邪推しつつ・・・Googleをスタートページに指定している私にとっては、毎日のロゴの変化が面白く、その意味も調べて、雑学を積んでいるわけです。
今日のは、こんな感じ。
・・・もはや、「Google」じゃない。
どれがG?どれがEなんだろう(笑)
初めて来た人が、「どこのサイト?」と驚かないのだろうか。
さて、このロゴはアレクサンダーカルダーとかいう人で現代美術家だそうです。
そして、私はモダンアートやら現代美術やらの価値を、全く理解できない人間なんです。
ここからが本題。
私の友人が言ってました。「板に釘さしてスポットライト当てたものを、私の芸術だと言われても全く感動しない。なぜなら努力の陰が見えないから。」
なるほど、と思いました。
もちろん、現代美術が努力なしで成立しているとは思っていません。インスピレーションやらオリジナリティやら、私のような凡夫には理解できない苦労の末の傑作なんでしょう、一つ一つが。
ただ、私が「美しさ」や「感動」を見出すのは、努力の跡やら、血と汗の結晶みたいなものが垣間見えるモノなんです。
映画ならストーリー展開、カメラアングル、音響。小説なら文才、シーン描写、伏線。それぞれの感動があるのですが、その前提に「努力のあと」が感じれるかどうかなんです。
そして、それは議員や市民、行政職員などを見るときの指標にもなっています。
この世界にいるとよく経験するのが「私は素晴らしい活動をしています!」「私の主張は素晴らしいんです!」「だから、貴方も賛同してください!私たちの活動に!」というやり取りです。
もちろん、私がその活動に対し「素晴らしい」と、自分の時間を割いて責任をもって賛同すべきだと判断したら、全力をもって、その何かしらの活動やら主張の旗の下、共に闘います。
ただし、それを判断する前に、「その人が汗をかいているかどうか」が、私にとって非常に重要なポイントなんです。
口は立つけど、身体は動かない人ってよくいるように、そんな人と共に行動をしたら、いくら活動や主張が美しく、絶対的なものであったとしても、実現することなく幻となってしまいます。それなら、やらない方がマシ。
一緒に汗をかける人かどうか。これを見極めることこそが「いい仕事」に繋がります。
いま、ひとつ、その「いい仕事」が実現しそうです。
そんな時、一緒に汗をかける仲間の存在に嬉しくなるのです。
「ああ、またやろう。」と思えるのです。