畑中政昭公式webサイト

武士道といふは

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」

いかにも物騒なこの言葉の本当の意味を知ったのは、ちょうど三年前でした。

 

大東亜戦争の時に利用された言葉だとか、武士は命を粗末に考えていたとか、この言葉への批判的な意見は、古典の読み方を知らない方々によるものだと、気付きを得ました。

 

この一節には、後に続く文章に「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を死果たすべきなり」とあります。

 

かなり「死」という言葉がでてきて物騒な印象ですが、それは当世の価値観や都合で解釈しているからであって、当時の習慣や死生観に思いを馳せて、読み解こうとしなければ、古典からは学び取るものは何もありません。
また、改めて死ぬことなんて不可能ですから、これは、死に狂うことを当時の武士に求めた一節でもありません。

 

とするならば、「今日が最期の一日だという覚悟で毎日過ごせ」という意味になります。

かなりストイックに聞こえるかもしれませんが、私は、政治家として、ストンと胸に落ちました。

 

言うまでもなく、政治家は、皆さんの税金で生きてます。

生活も、活動も、娯楽も、経費も、医療も、子どもの服も、妻の収入以外は税金が生きていく財源なわけです。

当たり前の話ですが、そんな我々政治家に、怠惰な毎日を過ごすことは許されません。

否、「怠惰は許されない」というよりも、一日一日を極限まで研ぎ澄ました生き方をしなければならないのでしょう

 

言うは易しで、そこまで毎日自分を追い込んで活動しているか、自問してみると、なかなか至っていない自分が炙り出されます。

頑張ろうとしている畑中に「そんなん無理やで」言い訳を与えてしまっている、もう1人の畑中がいます。

そんな囁きをする畑中を排除し、頑張ろうとしている畑中を高めていくことで、毎日の練磨の純度が高くなるのです。

 

ポスティングの一枚一枚、駅頭の一人一人に対する呼びかけ、政策研究の1ページ1ページに対する執着、何より一日の遣い方。

 

そうやって、差してある刀を抜くまで、磨き続けるのです、毎日毎日。

武士のように、勝負どころという時まで抜かず、研ぎ続けるのです。

 

そんな毎日を過ごすために、そんな覚悟を反芻するために、葉隠れという存在が必要なのです。

一昨日は、京都で三度目の葉隠れの講義でした。

 

改めて、毎日毎日、刀を研ぐ覚悟をし、地元へ帰ってまいりました。

次に、差してある刀を抜く場面はいつか。

一般質問、選挙、政策実現の場、まだ見ぬ勝負どころまで、刀を研ぎ続けます。

しっかりと、抜けるように。

 「差してある刀、明日は抜いてこいよ。」