給食費の公会計について ①学校給食の始まり
去る9月22日、第3回定例会(9月議会)が閉会しました。
限られた会期のなかで私以外の議員さんに慎重審査をしていただくよう努めるのが議長の役目。
なので、議長が自分の質問に大幅に時間を費やすような「会期に支障をきたす振る舞い」をするわけにはいきません。
畑中の支援者からすれば消化不良な1年になるかも知れませんが、議長とは私心を捨て、高石市議会全体のために心血を注がなければならない役職。
ご理解くだされば幸甚です。
とはいえ、ただただ黙って過ごす無為の1年よりも、自分自身の政策スキルを磨き込む「インプットの1年」にしなければと思い、様々な分野を勉強中です。
さて、表題にもあるように給食費の公会計について考察を述べてみたいと思います。
公会計とは、議会で審議される決算書にキチンと収支状況が記載されるようになることです。
当然のことながら、民間企業の会計情報が議会で審議されるわけがありません。
学校の給食は、とても微妙な立ち位置にいます。
学校給食は法律で教育委員会の職務であると明確に記されています。
(地方教育行政の組織及び運営に関する法律§21の11)
にもかかわらず、学校給食の会計業務は小中学校でおこなわれており、給食費の徴収管理が教職員の負担となっている点・債権管理(未納対策)の法的限界・滞納状況のブラックボックス化・保護者の負担感の増・引き落とし口座を自由に選べない点などのデメリットが挙げられる。
これを教育委員会が担い、キチンと議会にも透明化された会計処理をしてください、というのが公会計化です。
さて、なぜ学校給食の会計処理が公会計ではなく私費会計でおこなわれているかの経緯をご紹介したいと思います。
明治22年、日本で給食が初めて実施。
学校給食発祥の地として知られる山形県の忠愛小学校で、寺院が宗派を超えて生活が貧しい子どもに無償で昼食を支給しました。ちなみに、メニューは塩むすび・魚の干物・漬物だったようです。その後は、他の都道府県に広まっていきました。
大正3年、初めて国が関与。
東京の私立栄養研究所に科学研究奨励金を交付し、国庫補助による貧困児童の救済が実施されました。その後、貧困児童から栄養不良児、身体虚弱児に対象が拡大されました。
昭和22年、米国からのララ物資。
全国都市の児童約300万人に対して小麦粉や脱脂粉乳が支給されました。ユニセフからも寄贈を受け、全国に学校給食が拡大されていきます。
昭和26年、海外援助の打ち切り。
サンフランシスコ講和条約締結によって、ガリオア資金による援助が打ち切られ、学校給食は危機に瀕しました。維持するために保護者の全額負担が図られましたが、負担が大きかったので、生活が苦しい児童が昼食を食べられないという事態を招きました。
昭和29年、学校給食法の制定。
国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国展開。「学校給食費の負担に困難を感ずる保護者に対して適当な援助の措置をなすこと」という付帯決議のもと、学校給食法が制定。
昭和32年、給食費を学校で処理するよう回答。
文部省の管理局長が「学校給食費は、保護者に公法上の負担義務を課したものではなく、その性格は学校教育に必要な教科書代と同様なものであるので、学校給食費を地方公共団体の収入として取り扱う必要はない」と回答。これが給食費が私費会計になっている由縁であります。
このように、学校給食の原点は生活に苦しい児童救済という点であり、現代においても学校給食を論ずるうえでこの視点を忘れてはならないと考えております。
続きはまた後日、綴ります。
▼今日までの公務
- 9/1 議案発送
- 9/3 ソフトテニス大会
- 9/4 議案聴取会
- 9/5 議会運営委員会/政経懇談会
- 9/8 9月議会開会(~9/22)
- 9/9 高石カルタ記念大会
- 9/10 ソフトボール大会